鬼滅の刃で、軽微ながら気になった点
フィクションである以上、矛盾はつきものであるが、
熱狂的ファンは当然であるのかもしれないが、社会現象とかにまでなってくると
なおさらだが、誰とも言わずに勝手に考察が始まるものである。
またはファン人情として、なんとしても成り立たせたいために
矛盾を矛盾でないようにあれこれ(時として「どんだけ頭がいいんだ?」
といった想像・創造を駆使して)成り立たせようというベクトルが働くのである^^
(よく言われるフィクションの存在意義)
それを言外に共有した上でみんな楽しんでいるのであれば、
それはそれで良いのだろう。
※過去の投稿 富岡義勇が鱗滝左近次に宛てた手紙の疑問 についてはこちら
禰豆子の竹
禰豆子が鬼になりかけたので、人を襲わないように咥えさせた竹について。
実際に口と竹はどういった状態なのだろうか?
短絡的に考えれば、鬼の牙が危険なので牙で竹を噛んだ状態であろう。
そうするとどうしても唇は密封状態ではない。
医療関係者や介護関係者であれば分かるが、(実演するとすぐに分かるが)
口を閉じてないとどうしても唾液が外に出てきてしまうのである。
なので、漫画中には出てこないのだが、おそらく優しい
炭治郎が常に禰豆子のよだれを拭いてあげているのだろうな、
といった、何にもならない想像^^
(もしくは禰豆子には人としての恥ずかしさが残っているので、
常に一生懸命によだれが垂れないように吸い上げてる、とかになってくるが、
それもかわいそうなので、原点に戻ってこのことは「気にしない、考察しない」
のが一番いいのかもしれない。)
(または「鬼になり生存活動が止まったので、一般で言うところの
「食事や生存活動」に対する唾液の分泌は停止した、とか割り切るのも一手。
人の血を見た時だけ唾液の分泌が始まるとか。)
想像を逞しくすると、竹はただのカバーであって、あの中は
牙をしっかり抑えつつも口を閉じれるように、石膏などで
型を取って、口が痛くならないように歯医者さんで使うような
何か柔らかいジェル状のもので作られたもの(大正時代にも存在し得たもの)を、
実際は禰豆子が噛んでいるという案。
(案ってなんだ?)
更に言えば、炭治郎も富岡も鱗滝も、禰豆子は人を襲わないということは
分かったので、人前にさえ出なければ竹はいらないのでは?
とも一瞬思ったが、やはり竹は「保険」として必要だな、ということ。
何かの手違いで禰豆子が暴れた時に竹があるとないとでは、
(禰豆子が本気になれば竹は一瞬で粉々になろうとも、)
たとえ刹那の違いであったとしても保険としての竹の意味はあるのである。
それと対外的に人の目に鬼の牙を見せない意味。
基本的に日中は外に出ない、食事もしないという点を差し置いた前提であっても。
これも保険的な考え方。
現実の世界に立ち返ると、「鬼になりかけた人が竹を噛んでいる」という
「絵」は漫画的に捨てがたいし、独自性(ユニーク性)・マスコット性も
抜群なので捨てる意味がないだろう^^
那田蜘蛛山の鬼
那田蜘蛛山編の累の家族役の鬼で、父親役と兄役の鬼に
エピソードがなくてちょっとかわいそう。
また、なぜ父親役の鬼は顔を蜘蛛に、兄役の鬼は体ごと
蜘蛛にした・しようとしたのであろうか?
他の鬼も見てみると、どうやら自分の体は自分の思うように
できるようなので、それぞれの鬼が生存競争で勝ち残りやすい
自分に合った姿になっているのであろう。
(元は人間なので、そのまま人間の姿の鬼が多い。)
兄役の鬼は、武器を持って戦えなくなる代わりに蜘蛛の捕食能力に
特化することで生きて?いこうと思ったのだろうか。
父親役の鬼は人に恐怖を与えてひるませるために、また父親としての
威厳を出すため蜘蛛の顔にしたのだろうか?
大きなあごによる強力な咀嚼攻撃は前面に押し出してない。
また「自分の体のここをこうしたい、手を生やしたい、
触手を伸ばしたい」というのは、鬼本人の「意志」パワー
(ウィルパワー)だけでできるものなのだろうか?
腕一本にしても骨があり筋肉があり筋があり神経があり、
それらは意志でできてるわけではなくて、生物の自己完結性で
できているので、鬼としてはできたとしても、あくまで
「ここら辺に腕と同等の組成をしてくれないかな」的な
「きっかけ」を与えるくらいまでだろう。
ましてや完全に異種の蜘蛛の組成を形成するにはウィルパワーでは
できるわけがないので、おそらく蜘蛛の遺伝子なりをものすごい
理論跳躍して取り入れているはずである。
(ザ・フライ!?(ジェフ・ゴールドブラム)世代がばれる)
他種を融合できることをまじめにやって、遭遇したあらゆる
生物を融合して、それぞれの長所をいいとこどりしていけば
かなり強くなれると思う。
(と同時にかなりおぞましくなるだろう。この辺は美意識が
優先されるのだろうか。)
また、下弦の壱 魘夢のように汽車とも融合できるのであるから、
例えば人の捕食はちょっと我慢して、がんばって山とかと融合して
しまえばかなり最強だろう。
融合後は入山してきた人をいただくと。慎重になるのであれば
事故ってしまった人だけいただいておけば怪しまれまい。
(他の鬼も見てみると捕食数は数十年~百何十年で数十~数百人レベル
であり、数百年前の統計が取れてはいないが過去の事故数は現代よりも
多かったと仮定すれば、まぁ安定的に補給が確保できてなかなか
賢いやり方であろう。)
山と融合しているので首の骨をはるか地中深くにしておけば
まず切られる心配はない。
後の心配というか問題は可動性であろう。
たいていの話だと大型化すると可動性が下がって、それこそ
鬼の腹に入ってとか、血管とか骨とかに入って「内側から倒す」
系の話になることがほとんどである。
山の大きさで可動性もあると本当に最強になってしまうので
むしろ条件設定でこの「枝」は切り落とされるわけである。
山鬼「無惨さま、山と融合しました!」
無惨「うむ、よくやった」
とかなるのだろうが、いったいこの鬼は何をしたいのだろうか、
ということにもなる。
もう一点、傷を瞬時に直したり、腕を再生させたりというのは、
細胞分裂の速度とかに行き着くのだろうか。
腕を生やすにしても、その元となる養分が必要なので、
それは一体どこにどうやって有しているのか、
(すべてはエネルギーに行き着くというのならばゴジラが参考になる)
(そう言えば、映画「シン・ゴジラ」でいつまでも気になって
頭から離れないのは、ゴジラ対策を会議室で考えている場面で、
矢口(長谷川博己さん)が、自分のコーヒーともう一つのコーヒーを
持っていくシーンで、自分のコーヒーにちょっと口をつけた時に
首をちょっと横に振るのだが、あれはどういった意味だったのだろう?
という点。(そこか!)
P.S. Netflix版で言うと 1:28:28 のシーン。
見返すと「熱いな!」のリアクションだった!^^
(見返すまでは、矢口のコーヒーに対するリアクションだけが
何故か強烈に印象に残っており、無理に思い出すとそれが
「熱いのか」または「ぬるかったな」なのか「あまり美味しくない
コーヒーだな」なのか自分で記憶を作ってしまっていた!)
人の記憶とはこう言うものだが、この状況で矢口が
首をちょっと横に振ったことを、私は何故かをずっと気にしていた、
と言う点が重要である。(言い訳甚だしいが。。)
人の行動に全て意味を含んでいる訳ではないが、
「微に宿る」(正しくは「神は細部に宿る」)とも言われるように、
その人物をして、その行動をとらしめたことは考察の対象になるのである。
この点で想像が止まらなかったのだろう。皆さんもこれを気にしだすと止まらなくなるので、気にしないようにしましょう。
(更に踏み込むと「歴史とは」とかになるのでやめておくが、良い・悪いでは決してないのだが、ドラマを作ると言うことは特に史実ものにおいてはその時の最新史実情報を元にその時の情景を再現し、各登場人物の心情まで迫れて、考察の新しい切り口になったりして見ていて楽しいのだが、他方でそれがその通りであったかどうか、と言う点はまた別の問題ということであろう。))
とかなり脱線してしまい、これ以上行くと夢がなくなってくる
ので、(またはこれによって驚異的増殖スピードの細胞の
研究が進むことを期待して)、この辺までにしておきます^^
鬼舞辻無惨とキマイラ吼
鬼舞辻無惨の口(顎)を持った触手を見てキマイラ吼を思い浮かべた。
そしてまたキマイラ吼を読み返したくなった。
(主観を述べただけで、なんの考察もなくてすいません。
ただ、同じ事を思ったSFファンはいるはず。。)
※キマイラ吼 … 夢枕獏さんの小説。詳しくは以下Wiki参照。あの世界観がたまりませんね!